各氏の対日功績は以下のとおりです。
ジョージ・アラタニ アラタニ財団会長兼理事長 【旭日重光章】
同氏は、カリフォルニア州ガーディナ市生まれ。日米開戦と共に、財産の多くを失った上、アリゾナ州のヒーラ日系人強制収容所に収容されました。その後、ロサンゼルス市に移り、貿易会社を設立し、ディナー・ウエア等食器材を扱うミカサ㈱、日本製オーディオ製品を扱う米国ケンウッド社を起こし実業家として成功しました。
幼少のころより、社会貢献に熱心であった父の影響に加え、事業で成功を収めた同氏は、社会活動に関心を持ち、青少年のスポーツ振興・支援を積極的に行う活動の中で、南カリフォルニアの日系人社会に人脈を広げていきました。敬老ナーシング・ホーム等の設立と運営に多大な貢献を行うとともに、日系引退者ホーム新築資金の募金活動に尽力したこと等により、昭和63年春には、勲4等瑞宝章を受章しています。
その後も、同氏は、日米間のビジネスで得た利益を、90歳になる今日まで、30年以上に亘り、文字通り「無私」の心でひたすら寄付するとともに、終始一貫、人々を鼓舞し、率先垂範行動してきました。日系企業、日系コミュニティーに対し、日系諸団体の必要性・事業の重要性、更には、これら事業が日米関係に如何に貢献するものであるか等を熱心に説き、関連諸団体、個人に対し、共に支援することを説得し、その結果、所要の資金が手当てされ、数多くの日米友好親善増進事業、日本文化継承・普及事業が実現するに至っています。
同氏がこれまで、理事、評議員として、多大の貢献を行ってきた全米日系人博物館は、日系アメリカ人の文化と歴史を保存することを目的として建設された唯一の全米規模の博物館であります。現在、博物館は年間10万人を超える来館者を世界中から集め、戦後60年以上が経ち、第二次世界大戦前後の米国における排日運動や強制収容所収監等の日系人の苦難の歴史を世界に伝える発信源となっています。
第二次世界大戦中に米国内に強制収容された日系人を顕彰する日系米国人記念碑建設では、理事兼上級顧問として尽力し、同記念碑は、米国の首都ワシントンD.C.の中心、米国議会議事堂まで数分のところに建立されました。
日本の伝統並びに近代芸術・芸能を一般米国人に約30年に亘り広く紹介してきている日米文化会館では、顧問として、同会館の建設のための募金活動から今日の運営段階に至るまで、日本文化の普及・継承・発展に寄与してきました。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の日本研究センターの活動の支援、アジア系米国人センターの活動の支援、奨学金を付与することで、UCLA校学生の日本留学を支援してきました。
また、アラタニ財団を設立し、同財団の理事長として、日本文化の継承・発展、日米文化交流、日系社会発展のために多大の貢献をしています。
ラッセル・ローウェル・ハンリン 南カリフォルニア日米協会名誉理事長 【旭日中綬章】
同氏は、サウス・ダコタ州スー・フォール市生まれ。3歳のとき両親とともにカリフォルニア州に移住しました。
同氏は、昭和53年から南加日米協会の理事を務め、若手の啓発と、同協会の事業活動を通じた日米文化交流と相互理解の促進に貢献し、平成8年から同10年には理事長を務め、自ら講演を行い、日本への関心を高めるとともに、同協会の事業活動の拡充に尽力し、日本経済の長期的低迷を背景に、当時厳しい状況にあった同協会の財政立て直しに大きく貢献しました。なお、同氏は、現在も、同協会名誉理事長として、積極的に同協会事業に参画し、後進の指導を行い、助言を与えています。
また、同氏は、ロサンゼルス工芸高等学校を卒業後、サンキスト社(当時の名称はカリフォルニア果実栽培販売)に就職し、その後、ほぼ一貫して、同社の国際業務と広報業務に携わってきました。昭和39年の日本によるレモンの輸入自由化後、レモンの対日販売責任者として大きな成功を収め、昭和53年社長に就任し、平成10年に名誉会長として退くまで、同社社長としての重責を果たしました。その間に、検疫上の理由で輸入が禁止されていた日本産蜜柑の米国への輸出再開に寄与しました。対日理解の浅かった当時の米国において、同氏は、日本の柑橘類栽培の状況を最も良く知り、米側における良き日本の理解者として行動した経済人であったと言えます。
また、昭和50年代半ばからは、貿易交渉に関する大統領諮問委員会委員等の米国政府関係の要職、及び全米農業協同組合理事長の要職を兼務し、日本を含む国際農業貿易の伸長と安定に貢献しました。
川口 吉則 元日本語学園協同システム理事長 【旭日双光章】
同氏は、鹿児島県指宿郡山川町(現指宿市)生まれ。昭和31年5月、米国難民救済法の適用を受け渡米し、庭園業、酒類雑貨商、不動産業等を行いました。
その間、日本語学園協同システムでは、理事長等の要職を30年以上に亘り務め、学園経営側より学園の拡充・整備や、日系人子弟への日本語・日本文化の継承活動を支援し、日本語の普及に多大な貢献を行いました。また、教育資金を寄付することにより、高等科を卒業した生徒を対象とした研究科の開設に貢献し、日本語のみならず、日本の歴史、社会、経済、政治、宗教等の教育を行う手助けとしました。日本語学園協同システムの「訪日スピーチ研修旅行」で訪日した際、毎回御所訪問が許され、東宮御所で皇太子殿下(現天皇陛下)に、理事長として、学園を代表し、感謝の言葉を述べる機会を与えられました。
南加県人会協議会会長として、「日本語教育活性化への支援」を最優先課題として掲げ、当地の新聞、雑誌に日英両語で日本語教育普及のための広告を掲載するなど日本語の継承に積極的に取組む姿勢を示しました。
南加日系人パイオニアセンター会長として、従来の数多いサービスに加え、新たに日系高齢者に対して、無料コンピューター・クラスの開講、生活費援助の一環として特約店割引制度の導入、高齢者に対する自動車によるエスコート・サービスを始め、自ら運転手を買ってでて、高齢の日系人の福利厚生に寄与しました。