平成27年春の叙勲受章者
平成27年4月28日
4月29日(日本時間)、日本政府は、平成27年春の叙勲受章者を発表しました。
当館管轄区域関係者では次の3氏に対して授与されます。
記
当館管轄区域関係者では次の3氏に対して授与されます。
記
賞賜 | 功労概要 | 主要経歴 | 氏名 性別 年齢 |
現住所 |
旭日中綬章 |
日本・アメリカ合衆国間の文化交流促進及び我が国野球界の発展に寄与 | 元ロサンゼルス・ドジャーズ社長兼オーナー | ピーター・オマリー Peter O’Malley (男)(77歳) |
カリフォルニア州 ロサンゼルス市 |
旭日小綬章 | アメリカ合衆国における日系人社会の地位向上及び日本・アメリカ合衆国間の相互理解の促進・友好親善に寄与 | 現ターミナルアイランダーズ会長 現アマチ戦時強制収容所歴史協会会長 現表千家同門会顧問 元日系朝鮮戦争退役軍人団会長 元日米文化会館理事長 |
ミノル・トウナイ Minoru Tonai (男)(86歳) |
カリフォルニア州 ウッドランド・ヒルズ市 |
旭日双光章 | 在留邦人、日系人への福祉功労 | 元南加庭園業連盟会長 元ソーテル日本学院理事長 |
小山 信吉 (こやま しんきち) (男)(80歳) |
カリフォルニア州 ロサンゼルス市 |
各受章者の対日功績
ピーター・オマリー 旭日中綬章

ピーター・オマリー氏は、昭和12年12月12日にニューヨーク州ブルックリンで出生。昭和36年にペンシルベニア大学を卒業、昭和37年にドジャースに正式入社し、昭和42年副社長に昇任、昭和45年社長に就任しました。そして、同球団を売却した平成10年3月19日までの28年間を社長兼オーナーとして務めました。同氏の初来日は昭和31年10月で、両親に連れられ日米親善試合を観戦しました。同氏は、その時の日本人選手のマナーの良さ、惜しみないファンへのサービス、誰に対しても笑顔で迎える姿を今も鮮明に覚えており、その印象が日本に対する関心のきっかけとなりました。そして、その後ドジャースが地元ロサンゼルスのファンに愛されるチームとなり、同氏が日本の友人たちと良い関係を作ることができたのも、このときの印象が強く残っているからだとふり返ります。その結果として、「友好」、「相互理解」、「親善」という価値観が、同氏が長年大切にするものとなりました。そして社長就任以降、同球団売却までの28年間、そしてそれ以降現在までの17年間にわたり、野球を通して日米の友好親善に多大なる貢献をしてきました。
同氏は、平成10年までの間に、ドジャースのキャンプ地であったフロリダ州ベロビーチ市にあるドジャータウンやカリフォルニア州ロサンゼルス市にあるドジャー球場に日本プロ野球界の選手、監督、コーチや球団関係者等を20回以上招き、アメリカ大リーグ野球の本質を学ぶ機会を提供したことに加え、リトルリーグ、高校野球、大学野球のチームや関係者らもドジャータウンやドジャー球場に招きました。また同氏自らも約85回の訪日を繰り返す中で、日本野球界の関係者らと親交を深め、日米の友好親善に寄与しました。さらに同氏は、ドジャースの本拠地ロサンゼルスにおいても、日系人コミュニティとの友好を考慮しました。
平成7年には、日本人選手としては30年ぶりの大リーグ野球選手となる野茂英雄投手の獲得に成功し、多くの日系アメリカ人ファンを喜ばせ、日本からも多くの野茂ファン、野球ファンを現地に引き寄せ、日系人コミュニティとの友好促進にも貢献しました。同氏は、球団経営から退いた後も日本との交流を続け、平成15年から平成21年の間に早稲田大学で実施された「アイク生原&ピーター・オマリー記念スポーツマネージメント講座」の設立に尽力し、日本の若者たちの教育面にも寄与しました。
同氏は、平成10年までの間に、ドジャースのキャンプ地であったフロリダ州ベロビーチ市にあるドジャータウンやカリフォルニア州ロサンゼルス市にあるドジャー球場に日本プロ野球界の選手、監督、コーチや球団関係者等を20回以上招き、アメリカ大リーグ野球の本質を学ぶ機会を提供したことに加え、リトルリーグ、高校野球、大学野球のチームや関係者らもドジャータウンやドジャー球場に招きました。また同氏自らも約85回の訪日を繰り返す中で、日本野球界の関係者らと親交を深め、日米の友好親善に寄与しました。さらに同氏は、ドジャースの本拠地ロサンゼルスにおいても、日系人コミュニティとの友好を考慮しました。
平成7年には、日本人選手としては30年ぶりの大リーグ野球選手となる野茂英雄投手の獲得に成功し、多くの日系アメリカ人ファンを喜ばせ、日本からも多くの野茂ファン、野球ファンを現地に引き寄せ、日系人コミュニティとの友好促進にも貢献しました。同氏は、球団経営から退いた後も日本との交流を続け、平成15年から平成21年の間に早稲田大学で実施された「アイク生原&ピーター・オマリー記念スポーツマネージメント講座」の設立に尽力し、日本の若者たちの教育面にも寄与しました。
ミノル・トウナイ 旭日小綬章

ミノル・トウナイ氏は1929年2月6日、約3000人の日本人移民の漁師により栄えたカリフォルニア州ターミナル島で生まれました。34年に家族で日本を訪れ、8ヶ月滞在後、両親と共に再度ターミナル島へ戻り、36年にはサンペドロへと引っ越されました。同氏は学生時代、剣道、そして日本語を学び、毎週土曜日にはコンプトン学園日本語補習校にて勉学に励みました。
第二次世界大戦の始まりとともに、現地のリーダー的存在だった父が逮捕された後、1942年5月には家族と共にサンタ・アニータ競馬場へと強制立ち退きを命じられ、その後コロラド州のアマチ収容所へと収容されました。
終戦後はロサンゼルスへ移り住み、高校を卒業、その後アルバイトで学費を稼ぎました。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学したものの1年半で中退、再び働き始めたところ、1950年に朝鮮戦争が始まり、徴兵されました。同氏は衛生兵としてまず北朝鮮・ロシアからの侵攻に備えるため、東北地方へと派遣されました。1952年2月には韓国へと派遣され、最前線にて兵士たちを支え、1952年11月に除隊しました。再び勉学に励む為、ロサンゼルス・シティー・カレッジの商学部に入学、卒業後、再びUCLAの商学部に入学、1955年に卒業しました。その後会計事務所の簿記係として働き始めた同氏は、主に会計や管理職分野でのキャリアを積み上げ、87年に引退しました。
トウナイ氏は母校、UCLAへの寄付金集めを始めとし、働きながら複数の日系団体の活動に関わり、寄付金調達、日系社会の活性化、日本文化の浸透、日系人の地位向上に献身的に取り組んできました。1978年からアマチ戦時強制収容所歴史協会の会長、2012年からはターミナルアイランダーズの会長を務めた他、2002年に完成した記念碑、「ターミナル・メモリアル」のターミナル島記念碑委員会にて委員長も務めました。現在でも日系朝鮮戦争退役軍人団の理事、元会長、南加和歌山県人会顧問、江住村人会顧問、南加和歌山県人会奨学金委員として精力的に活動を続けています。
また、表千家同門会米国南加支部の理事、会長を長く務め、現在も顧問として南カリフォルニアにおける茶道の継承に尽力しています。日米文化会館の理事を30年以上務め、理事長も務めた経験があり、その他にも全米日系博物館、アジアアメリカ交響楽団、UCLA財団、日系ブルーインズやUCLA関連の団体で理事として活躍してきました。
第二次世界大戦の始まりとともに、現地のリーダー的存在だった父が逮捕された後、1942年5月には家族と共にサンタ・アニータ競馬場へと強制立ち退きを命じられ、その後コロラド州のアマチ収容所へと収容されました。
終戦後はロサンゼルスへ移り住み、高校を卒業、その後アルバイトで学費を稼ぎました。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学したものの1年半で中退、再び働き始めたところ、1950年に朝鮮戦争が始まり、徴兵されました。同氏は衛生兵としてまず北朝鮮・ロシアからの侵攻に備えるため、東北地方へと派遣されました。1952年2月には韓国へと派遣され、最前線にて兵士たちを支え、1952年11月に除隊しました。再び勉学に励む為、ロサンゼルス・シティー・カレッジの商学部に入学、卒業後、再びUCLAの商学部に入学、1955年に卒業しました。その後会計事務所の簿記係として働き始めた同氏は、主に会計や管理職分野でのキャリアを積み上げ、87年に引退しました。
トウナイ氏は母校、UCLAへの寄付金集めを始めとし、働きながら複数の日系団体の活動に関わり、寄付金調達、日系社会の活性化、日本文化の浸透、日系人の地位向上に献身的に取り組んできました。1978年からアマチ戦時強制収容所歴史協会の会長、2012年からはターミナルアイランダーズの会長を務めた他、2002年に完成した記念碑、「ターミナル・メモリアル」のターミナル島記念碑委員会にて委員長も務めました。現在でも日系朝鮮戦争退役軍人団の理事、元会長、南加和歌山県人会顧問、江住村人会顧問、南加和歌山県人会奨学金委員として精力的に活動を続けています。
また、表千家同門会米国南加支部の理事、会長を長く務め、現在も顧問として南カリフォルニアにおける茶道の継承に尽力しています。日米文化会館の理事を30年以上務め、理事長も務めた経験があり、その他にも全米日系博物館、アジアアメリカ交響楽団、UCLA財団、日系ブルーインズやUCLA関連の団体で理事として活躍してきました。
小山信吉 旭日双光章

小山信吉氏は1934年12月7日、福島県二本松市で生まれました。高校卒業後、父親の経営するスポーツ用品店を手伝った後、59年にウェスト・ロサンゼルスでボーディングハウスを営む祖母と母を訪ね渡米、1年後には帰国し結婚、東京の証券会社に勤めました。その後、68年5月に家族で再渡米しました。渡米後数ヶ月ボーディングハウスの手伝いを続けた後、「ガーデナー(庭師)」をめざして修行を始め、70年に独立しました。以降、ロサンゼルス近郊の広範囲にわたり顧客を抱え、現在も週に4日庭園業の仕事を精力的に続けています。2009年12月には長年の農業発展及び日米の親善への尽力を表して大日本農会より緑白授有功章を受章しました。
渡米後33歳で庭園業の仕事を始めた同氏は、多くの苦難、苦労を乗り越えながら、庭園業者の地位と福祉向上に奉仕してきただけでなく、多くの日系人団体に所属し、当地の日系人コミュニティの発展にも大きく貢献してきました。戦後、庭園業者となった多数の日系人が所属し、会員の支援、地域福祉に取り組んできた南加庭園業連盟の会長を2006年から2008年までの3年間務め、現在も連盟の歴史的資料の保存に尽力するなど、精力的に活動しています。さらに、南加福島県県人会会長を務めた同氏は2008年の団体創立100周年の際には記念誌の編集長として情報収集、編集作業に夫人と二人三脚で熱心に取り組み、これらの功績により、当時の福島県知事より特別功労賞を受賞しました。その他にも、ソーテル日本学院理事長、ベイシティーズ造園業組合長を務め、2014年には昭和会会長として活躍する等日系コミュニティに貢献しています。これらの功績を称え、2014年に在ロサンゼルス総領事より表彰を受けました。
渡米後33歳で庭園業の仕事を始めた同氏は、多くの苦難、苦労を乗り越えながら、庭園業者の地位と福祉向上に奉仕してきただけでなく、多くの日系人団体に所属し、当地の日系人コミュニティの発展にも大きく貢献してきました。戦後、庭園業者となった多数の日系人が所属し、会員の支援、地域福祉に取り組んできた南加庭園業連盟の会長を2006年から2008年までの3年間務め、現在も連盟の歴史的資料の保存に尽力するなど、精力的に活動しています。さらに、南加福島県県人会会長を務めた同氏は2008年の団体創立100周年の際には記念誌の編集長として情報収集、編集作業に夫人と二人三脚で熱心に取り組み、これらの功績により、当時の福島県知事より特別功労賞を受賞しました。その他にも、ソーテル日本学院理事長、ベイシティーズ造園業組合長を務め、2014年には昭和会会長として活躍する等日系コミュニティに貢献しています。これらの功績を称え、2014年に在ロサンゼルス総領事より表彰を受けました。